後悔しない家づくり(1) ー 予告編

 「家は3回建てなければ成功しない」と言うらしい。世の中に家を3回建てる人は普通いないので、要は誰もがみんな失敗するということだ。そこで突然ですが、これから家を建てようと考えている方のために、私のたった一回の家づくりの貴重な経験から、思うところのあれこれを書き留めてみたい。たとえ失敗したとしてもせめて後悔しないために、この拙文が少しでも参考になれば幸いである。

■ 私が突然、家を建てた理由(わけ) ― 耐震診断の激震!

 家を建てるのに理由も何も普通はないかもしれないが、私の場合、家を建てたきっかけこそが私の家づくりの原点なので、これを語らずして何も始まらない。

 人間、苦労を経験しないと感謝の気持ちが芽生えないものらしい。私の場合は「家」がそうだった。親が建てた家に当たり前のように住み、大学も地元なら就職も地元、結婚しても最初から親と同居したため、ずっと親の家に住み続けて何の不自由も感じていなかった。いま思えば自分でも不思議だが、一生住み続けられるわけでもないのに、私の人生設計の中に家を建てるとか家を買うとかいうことは全くなかった(←ただのバカ息子)。

 あるとき、名古屋市が実施する無料耐震診断を、タダならよかろうという軽い気持ちで受けたところ大変なことになった。診断の結果、「天文学的な数値」が出てしまい、わが家の女どもの収まりがつかなくなったのである。診断士がわざわざ結果を説明しにやって来て、どうしてこんなあり得ないような数値が出てしまったのかを恐縮しきりに説明してくれた。「別にあんたが言い訳してくれなくっても、要はそういう家なんだろうが」と、内心思いながら説明を聞いた。

取り壊す直前の、亡き父の形見の家(築32年)と私。
取り壊す直前の、亡き父の形見の家(築32年)と私。

 その家こそは、亡き父が建てた父のこだわりの家であった。一介の水道屋であって建築士でも設計士でもない父が、自ら設計してかなりの部分を自ら施工した。今で言う「DIYで建てた家」と言えば言いすぎかもしれないが、「DIYの精神で建てた家」であったことは間違いない。それは時代を10年も20年も先取りした、斬新なアイディアがいっぱい詰まった父の自慢の家だったが、惜しむらくは金がなかった。そのため、現場でかき集めてきた廃材を見えない部分で使うほどの超安普請だったのと、一番金がかかる「耐震性」という問題に目をつむった。見る人が見れば、ただの道楽で建てた家と映ったかもしれない。あるいは、貧乏人が目一杯背伸びして精一杯飾った「虚栄の館」だったかもしれない。

 そのことを私自身はある程度理解していたので、耐震診断の結果にそれほど驚かなかった。一番驚いたのは明らかに診断士で、驚きを通り越して気の毒なぐらい恐縮していた。そして、私の予想を裏切って、あろうことかわが家の女ども二人も結果に激しく動揺した。雅恵にはあらかじめ十分説明してあったはずなのに。もっとも、「震度5強ぐらいの地震で近所でわが家だけ倒壊すると、ちょっと世間体悪いよね」てな調子の説明では、雅恵が真実を理解していなくても無理からぬところではあった。しかし、母に至っては建てた当事者の片割れである。今さら「そんな家とは知らなんだ」では通らんだろう。それなのに、二人ときたら私が診断士から説明を受けている間ずっと遠巻きにして聞いていて、診断士が帰るやいなや「ねえ、どうするの、どうするの」と、二人して私に詰め寄るのだった。

 ええい、狼狽えるでない、愚か者め!

 しかし、形勢は明らかに私にとって不利だった。そもそも2対1のうえに、家にいる時間は私よりも二人の方がずっと長いのだ。

「あなたはずっと職場にいるからいいけど、地震で家が倒れて死ぬのは私たちなのよ」 そう言われると返す言葉がない。

 こうして、ひと月ほど放置したものの、耐震診断の結果がもたらした激震はいっこうに収束する気配がないため、仕方なく重い腰を上げて次の週末にハウジングセンターへ行くことにした。タダほど高いものはないとはこのこと。しかし、正直その時点では、まだ私の中で家を建てる決心、つまりは亡き父の自慢の家を取り壊す決心など、まるで固まってはいなかった。とりあえず行動を起こすことで、私に対する攻撃が緩むことを期待していた‥。

(つづく)