名古屋昆虫館の想い出


 この記事は、よい子の蟲だより№230 岡田正哉さん追悼号(平成23年8月31日)に掲載されたものを、一部加筆修正してアップしたものです。


■ はじめに

 岡田さんといえば昆虫館。昆虫館といえば岡田さん。私の中ではそれぐらい岡田さんと昆虫館は切っても切れない存在なので、岡田さんをしのびつつ、昆虫館の想い出について書いてみたい。

 

■ 若かりし日の私と昆虫館

 私が初めて昆虫館を訪れたのはもう30年以上も昔のこと。中区栄の高麗屋ビルの一室で、東海昆虫資料室とかいう名前でスタートしたばかりのころ、当時勤めていた会社が目と鼻の先にあったので、仕事帰りにちょくちょく立ち寄った。名古屋昆虫同好会発行の採集地案内など古い文献を見せていただいて、食い入るように読んでいた。

 しかし、どういう訳か私の高麗屋ビルでの記憶の中には、そこにいたはずの岡田さんの記憶がない。そして、私の高麗屋ビルの昆虫館通いは、ほんの短期間で終わってしまう。2年間の会社勤めで貯めたわずかな貯金を元手に、家庭の事情でいったんはあきらめたはずの大学へ進学しようと、会社を辞めて予備校に通い始めたのだ。

 こうして1年の浪人生活の後、晴れて大学生となった私は、瑞穂区の桜山にオープンした名古屋昆虫館に通い始める。

 

■ 岡田さんを怒らせた男

 桜山の昆虫館で私は岡田さんと知り合う。しかし、当時の私は岡田さんとなぜか相性が良くなかったようで、そのせいか、何となく昆虫館のことを敷居が高いと感じるようになる。当時の私の岡田さんに対する印象は、あの温厚でやさしい岡田さんとは微妙に違い、むしろ、真面目で堅い公務員のような人、という印象を抱いていた(後に自分自身が公務員になろうとは思いもよらなかった。)。

 ある時、私は岡田さんにヒサマツの採卵法について尋ねてみた。このころの私はゼフの採卵に夢中になっていて、何とかヒサマツを落としてやろうと藪谷へ二度三度と出かけたが、成果は芳しくなかった。何しろ当時の私は単独行を常としていたため、木によじ登って高枝バサミで先っぽの方の枝を落としてはみても、それを拾って卵が付いているかどうかを見てくれる相棒がいないので、極めて効率が悪いのだ。木に登ったり降りたりが大変なうえ、伐り落としたはずの枝がなかなか見つからないし、首尾よく卵を発見しても、その枝がどの部位の枝だったか分からなくなってしまう。効率も上がらなければ学習成果も上がらない。それならばいっそのこと、ノコギリを持ち込んで、中枝ぐらいなら伐ったって大丈夫なんじゃないかという気がしてきて、そんな話を岡田さんにした。

「そんなことしちゃあダメですよ! そういう心ない人がいるから皆が採りに行けなくなって迷惑するんです!!」

 私は、あの温厚な岡田さんを怒らせた、稀有の虫屋に違いない。

 

■ 憧れのよいこの虫の会

 そのころ桜山の昆虫館では、事務室の扉の向こう側から若い人たちの談笑する声が聞こえてきた。どうやら虫屋が何人か集まって盛り上がっているらしい。採集には一人で行きたいが情報は欲しい身勝手な私としては、扉の向こうの笑い声が羨ましかった。

 そのころから昆虫館のショーケースの中に、よいこの蟲だよりを見かけるようになった。岡田さんに尋ねてみて、よいこの虫の会の存在を知った。ならば入会したいと申し出たのだが、昆虫館とは直接関係ないからと、予想外の返事が返ってきて、その件は何となくそのまま曖昧になってしまった。

 

■ 衝動買いのツケ

ギフチョウ88か所めぐり
ギフチョウ88か所めぐり

 大学を卒業し、まもなく4月から「二度目の社会人」になろうとしていた86年3月下旬、昆虫館で、ある本との運命的な出会いをする。今はなき蝶研出版から発行されたばかりの「ギフチョウ88か所めぐり」である。それまでの私は収集にはあまり熱心でなく、むしろ蝶の生態や飼育に興味があり、仲間をつくらず、好きな蝶はと聞かれれば、オオヒカゲ、キマダラモドキ、ヒメヒカゲ…。どうして? 俺とおんなじ日陰者だからさ。― などとうそぶいていた私が、「立派なミーハー蝶屋」へと転向するきっかけとなった、まさにその本である。(念のため、当時は今と違ってキマダラモドキやヒメヒカゲをやっているヤツなんて多分いなかった。)

 苦学生なんて言葉が死語になりかけていた頃に苦学生をやっていた私は、2年間の会社勤めで貯めた金はとっくに使い果たし、アルバイトと奨学金で食いつないで卒業にこぎつけたが、最後に少し残った金で卒業旅行と称してタイへ採集に行ってしまったので、帰ってくると本当に所持金が底をついていた。4月からは公務員として役所務めが始まるというのに、スーツもワイシャツもネクタイも一切買うことなく、5年前の会社員時代の「お古」で凌いだ。通勤定期さえ買えなかった。それなのに、ああ、それなのに…、昆虫館のショーケースで見つけた4,800円もする高価な高価な「88か所」を、衝動買いしてしまったのである。

 当時の私にとってこれを死活問題と言えば大袈裟だが、少なくとも笑い話では済まなかった。最初の給料日まで何とか食いつながなければならない。学生時代のように単発バイトをするわけにはいかないし、今さら親に金のことで心配をかけたくなかった。そのうえ会社員時代に不良債権の回収業務(借金の取り立て屋)をやっていた経験が邪魔をして、生活苦から他人様に金を借りるなんてことは、ゴミ箱の残飯をあさってもしてはいけないことと思えた。実際どうやって食いつないだかは記憶にないが、少なくとも悪いことだけはやっていないはずである。

 

■ 岡田さんの対応

 それから3年後、すっかり生活に落ち着きを取り戻した私は、人生最良の伴侶を得ていた。妻の雅恵は、私の行くところどこへでもついて来た。採集へもついて来た。マレーシアのジャングルにまでついて来た。だから当然のこと、昆虫館へも毎回必ずついて来た。それまで何となく、どこかとっつきにくい人のように感じていた岡田さんが、雅恵と一緒に行くと、やさしく気さくに話しかけてくれるような気がした。岡田さんの方こそ私のことを、「どこかとっつきにくいヤツ」と思っていたのかもしれない。雅恵は私と違って斜に構えることなくいつも自然体で屈託がなく、そのうえ無防備で来るもの拒まずの性格なので、そんな雅恵と一緒にいることで、それまで私が無意識のうちに身にまとっていたバリアも霧消していたのかもしれない。

 

■ スーパー・サプライズ!

 それは確か、結婚後2回目の2月14日のこと。「ハッピー・バレンタイン!」そう言って雅恵が差し出した包みを開けて、私は目を丸くした。どうして? いったいどこでこんな物を!?

― それは私がほしがっていた本、蝶研出版発行「スーパー採卵術」だった。こんな本、本屋には絶対置いていない。取り寄せだって出来ないに違いない。今のようにネット販売もない時代である。

私 「どこで買ったの?」

雅恵「昆虫館に決まってるじゃない」

私 「一人で行ったの?」

雅恵「もちろん一人よ」

私 「どうやって行ったの!」

雅恵「どうやってって、バスを乗り継いで行ったのよ。調べたの。大変だったのよ」

私 「そりゃあ、大変だったろう」

スーパー採卵術
スーパー採卵術

 桜山の昆虫館は住宅街のような分かりづらい場所にあったし、我が家からは結構遠く、車に乗せてもらって1-2回行っただけの雅恵が、しかも名古屋に住んで1年余りで土地勘もなく、そのうえ地理オンチで方向オンチの雅恵が、あんなところまで一人で行ったというか、そもそも一人で行こうとしたこと自体が、私には信じられないほどの驚きだった。

 それにしても、若い女性がふらっと一人で来て、「スーパー採卵術」なんていうスーパー・マニアックな本を買い求めた日には、岡田さんもさぞかし驚かれたことと思う。

■ ポイントマップを描くこと

 昆虫館が千種区の春里町に移転して名古屋昆虫館準備室になったことは、昆虫館にとっては不幸の始まりだったに違いないが、自宅から近くなった私にとっては好都合だった。どこかへ出かけた帰りにふらっと立ち寄る機会が多くなり、行けば座り込んで長話しすることも多くなった。岡田さんともすっかり打ち解け、念願だったよいこの虫の会にもすんなり入会できた。

 このころは蟲だよりの原稿が書きあがると、昆虫館で岡田さんに直接手渡ししていた。あるとき、岡田さんから意外なことを言われた。蟲だよりの原稿に、文字ばかりでなくてもっとポイントマップを描いてほしいと言うのだ。でないと楽しくないと言う。私と同じく硬派の虫屋と勝手に決め付けていた岡田さんが発したこの言葉を、少なからぬ驚きをもって聞いた。それまでの私は、採ることを否定しないが心のどこかで全面的には肯定していなかった。もっと正直に告白すれば、自分は採りたいくせに他人が採ることには少々不満があった。自分だけいい子で、虫屋を全面的には信用していなかったと言ったほうがいいかもしれない。岡田さんのひと言に、私に欠けていたものを感じた。虫仲間を信じ、虫を愛するとともに虫屋を愛する岡田さんの人柄に触れた思いがした。

 

■ ポイントマップ予期せぬ効能

  岡田さんの一言は、虫屋に対する私の考えを変えるきっかけとなっただけでなく、私の採集に取り組む姿勢にまで予想外の影響を与えた。

 それまでの私は、人の情報に頼り、人より早く情報を得ることが良い成果をあげる最大の方法だといつの間にか思い込んでいた。ところが、ポイントマップを描こうとすると、人から教えてもらった情報で成果をあげてもマップが描けない。それまでいかに人頼みだったかを痛感した。マップを描きたければ自分で探すほかない。情報に頼ることは、人と競争することにつながる。自分で探そうとすることは、蝶の習性を知り、生息環境を知り、自分の目で観て頭で考え、生態をより理解しようとすることにつながる。こうすることで、私は採集本来の楽しさを取り戻したような気がする。蟲だよりの原稿にポイントマップを描くこと ―― いつしかそれが私の中で毎年の目標のようになっていた。

 

■ 昆虫館での人との出会い

 春里町に昆虫館があった時代が、私にとって一番恵まれた時代だった。しかし、昆虫館は再び自宅から遠い瑞穂区の新瑞橋近くに移転してしまった。岡田さんに対し、不便になったと愚痴ったら、その分逆に便利になった人もいると言って笑われてしまった。相変わらず自分のことしか考えない私と、岡田さんとの違いであった。遠くなったことで再び足が遠のき、年に一度くらいしか足を運ばなくなってしまったが、たまにしか行かない昆虫館で、人との出会いがあった。

 ある時、昆虫館の部屋の壁に貼ってある小さなメモに目が留まった。「****」。そこには懐かしい人の名前と東京の住所が書かれていた。**さんは私の1学年上で、私が中2のときに人生で初めて知り合った虫屋である。それまで独学で虫をやっていた私に、虫屋としての手ほどきをしてくださった。当時の私は甲虫、蝶、蛾、トンボ、セミ、ハチ…虫ならほとんど何にでも手を出していたが、蝶屋の世界へと導いてくれたもの**さんだった。北大へ進学されてしばらくして音信が途絶えていたが、岡田さんに聞くと、皮肉なもので今は**さんのほうが雑昆虫をやっているらしいことが分かり、道理で蝶屋の世界で名前を聞かないはずであった。

 晩年、体調を崩して入院しておられた岡田さんが、退院して昆虫館を再開されたと聞き、久しぶりに訪ねた時のことだった。今にして思えばこれが私にとって最後の昆虫館となった。いつものように岡田さんと話し込んでいるところへ、見知らぬ人がやって来た。その人こそは、私が中学生のときから尊敬してやまない****さんであった。***さんは同じ中学の2年先輩で、私が中1のとき学校の夏休みの作品展で蝶の標本を出品しておられた。それまで図鑑でしか見たことのなかった数々の蝶に魅入ると同時に、ラベルの採集地名を一生懸命メモしたことを覚えている。しかし、結局、***さんとは面識のないままであった。

 その後、***さんは信州大に進まれ、蝶界の最先端での華々しい活躍ぶりを伝え聞いていた。高3になった私は、親しい**さんのいる北大は受かりそうにないのであきらめて、信州大を受験するために願書まで取り寄せていた1月下旬のある日のこと、父が病に倒れて大学進学そのものを断念せざるを得なくなった。もし、あのとき信州大に進んでいたらそこで出会っていたであろう***さんは、きっと雲の上の人だったに違いないが、その雲の上の人と、30年もの時を隔てて最後の最後の昆虫館で出会えたことは、まさに奇遇としか言いようがない。きっと、岡田さんが会わせてくださったのだろう。

 

■ 最後に

 昆虫館の想い出を綴れば、それはまさに私の蝶屋としての想い出に重なる。虫屋とは、いつまで経っても少年の心を失わない大人だと思っているが、こうして想い出を辿ると、知らず知らずのうちに少しずつでも大人になってきた自分を思う。昆虫館での岡田さんとの出会い、そして多くの人との出会いに、感謝の気持ちでいっぱいである。

(2011年8月31日「よいこの蟲だより」№230より)