雅恵が採集についてくる本当の理由(わけ)


 サイト開設1周年を記念して、これをお送りします。「こんなネタかよ」のブーイングをものともせず、あえてこのネタをお送りします。


 「奥さんも蝶が好きなんですか?」

 人から聞かれて困る質問である。このサイトを始めてから聞かれる機会が増えた。その答え自体は明確に「ノー」。ただそれだけだが、次に、「では、どうして…?」と聞かれて満足な説明ができない。定番の質問にいちいち窮して言葉を濁しているのは、ちゃんとした理由がないからではない。むしろ、明確な理由があるのを知っているのに、それを軽々しく口にする気にならないからだ。そこには誰にも想像できない、軽々しく口にすることさえはばかられる、そんな驚愕の事実がある。

 今を遡ること25年前の春。そう、説明するにはそこまで遡らなければならない。当時、私は困っていた。新婚4か月でまだ「ほやほや」のころのこと。シーズンの開幕を迎え、採集に行くにあたって雅恵にどう切り出そうか、どう説明すれば円満に理解してもらえるだろうかという難題に対峙していた。採集に行きたい。行かねばならない。ボヤボヤしていたら、すぐにギフチョウシーズンは終わってしまう。

 最初は、ためしに雅恵を誘って近場へ連れていった。2回目も連れていった。しかし、正直あまりしっくりこなかったと思う。これから先も毎回毎回、雅恵を連れて採集に行くことなど、この時点では想像もできなかった。

 4月下旬のある日、今度は私一人で採集に行くことにして、雅恵には留守番を命じた。行き先は長野県大鹿村。岐阜県昆虫同好会の会誌「だんだらちょう」で見つけたヒメギフチョウの記録が気になっていて、どうしてもこれを探しに行きたかった。今なら中央自動車道を使うに決まっているが、当時は今と違って時間はあるが金がなかったので下道を走ることにした。片道4-5時間かかるだろうか。早朝まだ暗いうちに家を出て、名古屋ICの近くを通りかかった。道路脇に不自然な格好で車が停まっていて、周りに大勢の人だかりができている。事故だろうか。故障かな? 横を通り過ぎようとする私の車を、手を挙げて停める者がいた。困っている人を見て知らぬふりはできないので当然のことブレーキを踏んだそのとき、事件は起きた。

 停車した私の車の左後方を、誰かがドンドンと蹴ったのである。血気盛んな20代の私は瞬間的にキレて、車を降りるなり野太い声で怒鳴りつけた。

「誰だ、バカヤロー! いまオレの車を蹴っただろう」

 付近に突っ立っていた連中ににじり寄ったその時だった。

「何だとコノヤロー!」

 ガッツーン!! いきなり顔面をぶん殴られて、吹っ飛びそうになってよろけた。

「謝れコノヤロー!」 すぐに2発目のパンチが飛んできたが、今度はとっさによけた。

 何なんだ、こいつらは。気づくと5-6人の若い男に取り囲まれていた。そのうち何人かが鋭い眼光で私を睨みつけ、拳を固めて今にも私に襲いかかろうとしていた。取り囲んでいる5-6人の外側にはさらに5-6人が二重に取り囲んでいる。瞬時に総勢10人以上に完全に取り囲まれていた。

 殺される。そう、殺されると思った。この少し前に、鎌倉か小田原で、深夜に帰宅途中の新聞記者が若者グループに殴り殺されるという事件が起きたばかりで、そのことが一瞬脳裏をかすめた。

「土下座しろー!」3発目のパンチが飛んできて、必死でよけた。パンチを振るってくるのは一人。しかし、二人目三人目が同時に襲いかかってきたらひとたまりもない。絶体絶命だった。逃げることもかなわず、パンチをよける以外に為すすべもなかった。付近は建物もまばらで、未明のこの時間、助けを求めるにも人通りなど全くなかった。

「土下座しろー!」執拗にパンチを振るってきた。その度に必死でかわした。パンチをよけながら、いったんは離れてしまった車との距離を少しずつ詰めていった。

 私には人を殴った経験がないので分からないが、パンチというものは空振りするとかなり体力を消耗するものらしい。何発もパンチをかわしているうちに、相手が大きく肩で息をし始めた。次第に足元もふらつき始めた。「やめとけ、やめとけ」「もういい加減にしろ」 遠巻きにしていた連中からこんな声が飛び始めた。取り囲んでいたヤツらの緊張が少し緩んだように感じた。

 今がチャンスだ。何発目かのパンチをかわしたとき、とっさに相手の腕か肩をたぐると相手は大きくバランスを崩してよろめいた。一瞬の隙に人垣をかいくぐり、脱兎のごとく逃げ出して車に飛び乗った。ドアをロックし、急発進させ、夢中で車を走らせた。追ってくるのではないかという恐怖心でバックミラーが気になって仕方がなかった。そういえば暴走族風にも見えた。追われたら絶対逃げきれない。途中、警察に通報しようと思ったが、今と違ってケータイなどない時代のこと。道路脇に電話ボックスはあったが、こんな所で車を停めて電話をしているところを追いつかれたら今度こそ殺される。真っすぐ東へ逃げて猿投グリーンロードを抜け、国道153号に入った辺りでようやく落ち着きを取り戻し、もう追ってこないだろという気持ちになった。

 助かった。ほっとすると今度は不思議なもので、警察に電話するのが億劫になっていた。いまさら110番して何て説明すればいいんだろう。署まで出頭せよと言われたら面倒なことになる。今日一日が台無しだ。かえって雅恵にも心配をかける。そんなことを頭に巡らせながら、実際田舎へ来ると電話ボックスもなくなっていた。

 結局、警察には通報しなかった。今ではこのことを、公務員として恥ずべき過ちと深く反省している。そして当日、自分が警察に通報しなかったせいで、あのあと誰かが自分の身代わりになっていたらどうしよう、時間の経過とともにそんな後悔の思いが重く重くのしかかり始めていた。山に着いても全く楽しくもない一日を過ごした。

 翌朝、新聞をむさぼるように読んだ。どこにも事件は報道されていない。幸い私の身代わりになった人はいなかった。心の底からほっとした。これであのことは忘れられる。あれは悪夢だったんだ。心配するから雅恵には絶対言うまい。もう忘れよう。そう思った次の瞬間、雅恵のすっとんきょうな声が朝の食卓に響いた。

「あなた、一体どうしたの!」

 私の予想もしないことが起きていた。一夜明けて、ぶん殴られた左の頬に大きな紫色のあざが浮かび上がっていたのだ。鏡の中の自分の顔を見てもう隠せないと観念した私は、事の一部始終を雅恵に打ち明けた。

「もう行っちゃいかん!」

 そんなこと言ったって、山で事故に遭ったわけではないのでどうしようもない。

「だから、もうどこへも行っちゃいかん。もうどこへも一人で行かせない!」

 新婚早々危うく後家さんになりかけた雅恵は、私が想像するよりもずっとずっと頑固でかたくなだった。それからというもの、私の行くところ本当にどこへでもついてきた。やれやれ。でも、どうせ長くは続くまい。そう思った私は、しばらくは雅恵の気の済むようにさせてやろうと考えた。

 私のことをよく知る友人たちからみれば、「むっつりスケベ」で通っていた私がいつもいつも照れ笑いを浮かべながら新妻を伴って出没する姿は、信じ難いものがあったかもしれない。私も信じ難かった。しかし、幸か不幸か新婚だったので、行く先々で冷やかされたとしても、ただそれだけのことだった。

 どうせ長くは続くまい。初めはそう信じて疑わなかった。しかし、雅恵はいつまで経っても当たり前のように私の行く先々についてきた。それどころか、心配だから仕方なく嫌々ついてくるというのではなく、どこへ行くにも嬉々としてついてきた。少女のような無邪気さと子どものような好奇心で、知らないところへ行くのが、そして知らない人と会うのが楽しくて仕方ない、というふうに私の目には見えた。 雅恵が楽しそうだと私まで楽しい。いつしか私も雅恵がついてくるのが当たり前のように思うようになり、そして気付けば雅恵についてきてほしいと思うようになっていた。

 事件の前、最初に採集に誘ったとき雅恵は、「ついて行って大丈夫なの? 足でまといにならない?」と、気遣いを見せた。それが事件後は、ついていくのは当然で、連れていかないのなら行かせない、というふうに様変わりしていた。私も最初はあれこれ気を遣ったりしていたが、そのうち開き直って、勝手についてくるヤツに気を遣う必要はないとばかりに徐々にキツい場所や危ない場所へも連れていくようになった。

 すると驚くべき事実に気づいた。初めは、女だから、小柄で体力がないから、と私が勝手に決め付けていたが、実のところ雅恵は運動神経が良くて特に身体バランスが良く、小回りが利くうえ持久力もある。急な斜面や滑りやすい岩場、丸木橋なんていうのは平気の平左(私のほうがよっぽど危ない)。おとなしそうに見えて、実はお転婆だったということが判明した。こうなると今度は私のほうが図に乗って、平気でマレーシアのジャングルにまで連れていくようになる。そして雅恵も平気でついてきた。

あの頃の雅恵 ― マレーシア ランカウイ島にて 1991年12月
あの頃の雅恵 ― マレーシア ランカウイ島にて 1991年12月

 今、本人に聞くと全否定するが、確かに雅恵は楽しそうに採集についてきた。特にマレーシアはお気に入りで、だから私はますますエスカレートして、いつの間にか年に3回もマレーシアへ行ったりするようになっていた。 

 25年も経った今では、さすがにあの頃のような無邪気な少女はそこにはいないけれど(いたら怖い)、いまだに当たり前のように私の採集についてくるし、どこへだってついてくる。

 もし、あの事件がなかったらどうなっていただろう。筋書きが違っただけで結果は同じだったかもしれない。そう思う反面、あの日を境に、新しい二人が始まったのは確かである。

(2014年8月16日)